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豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。 主祭神の居城があった大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。 == 歴史 == 豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく〔神として祀られるには土葬や火葬をしてはならないと考えられていた(河内将芳『秀吉の大仏造立』)。〕伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の1599年(慶長4年)4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され(『義演准后日記』・『戸田左門覚書』)〔遺体埋葬は死の直後という説もあるが、根拠不明。〕)、その麓に廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。この鎮守社は北野神社に倣った八棟造りだったと『義演准后日記』慶長3年9月7日条に記す。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる〔『伊達日記』・『本阿弥光悦行状記』・『イエズス会日本報告集』など。一説に「新八幡となって大仏を守りたい」と遺言したとされるが、以上の文書にそのことは見えない。〕。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる〔『言経卿記』・『義演准后日記』〕。1599年(慶長4年)4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号が与えられた(『押小路文書』「宣命」)。『豊国大明神臨時祭礼御日記』によれば日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は「豊国神社」と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた(『義演准后日記』。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、慶長16年の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある〔河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館 2008年〕。 豊国社の遷宮は吉田神道の吉田家によって主宰され、吉田家の当主吉田兼見が主に取り仕切った。豊国社の社務職は兼見の孫で養子の萩原兼従が就任している。また兼見の弟神龍院梵舜が、豊国社内の神宮寺の社僧になっている。1601年(慶長6年)には一万石が社領として寄進された。1604年(慶長9年)には徳川家康が、萩原兼従の社家としての地位を承認し、神龍院梵舜がこれを補佐するように命じている。また毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われるようになった。特に慶長9年度の豊国祭は「豊国祭図屏風」に描かれるなどして有名である。 しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、方広寺の鎮守とすべく〔『駿府記』・『武徳編年集成』。〕、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられ以後仏式で祀ることと定められた〔このため後に徳川家康の神号を定める際、「明神号は縁起が悪い」として権現号にした。〕。神社は家康の意向に従い徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:豊国神社宝物館後方〔現在神社ではこの五輪塔を「馬塚」と称して「阿弥陀ヶ峰の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峰から移霊したもの」(同社パンフレット)としているが、江戸時代の地誌にはこうした説も「馬塚」の名も見えないから、近年になって境内に仏式の塔があることを説明するために、神社によって造られた説か。〕)に遷されている。なお、当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』・『雍州府志』など)。また秀吉の遺体そのものは霊屋とともに山頂に遺された(『雍州府志』)。 秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置された。旧参道内には新日吉神社(いまひえじんじゃ)が遷せられて豊国神社参拝の道も閉ざされた。一時は梵舜に神宮寺が下げ渡される話もあったが、結局は家康死後の1619年(元和五年)に妙法院へ移されている。神体は梵舜が密かに持ち出し、自宅に隠し祀った〔一説に神体は新日吉神社にひそかに遷されたともされ、現在同社の境内社「豊国社」に祀られている。豊国社はかつて「樹下神社(このもとじんじゃ)」と言い、秀吉の旧姓「木下」と幼名「日吉丸」を日吉大社の摂社「樹下神社」の名に託して隠し祀ったものという(新日吉神社由緒書)。〕。なお滋賀県竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は創建豊国神社社殿を移築したものと伝えられている。1791年(寛政3年)公刊の随筆『翁草』によると、家康の孫・徳川家光は豊国神社再興の容認を検討したが、重臣の酒井忠世に反対され、取りやめになったことがあったという。結局、江戸時代を通して再興が認められることは無かった。 1662年6月(寛文2年5月)に京都で地震が起きたとき、豊国神社周辺に被害がなかったため、地震除けの流行神として参詣者が集まった〔土田衛編『かなめいし』、愛媛大学古典叢書、174-5頁〕。また民間では起請文の対象として豊国大明神が密かに使用された事例もある。 1868年(慶応四年閏四月)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命された。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。旧福岡藩主の黒田長成侯爵が中心となり境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。(この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。遺骸は丁重に再埋葬されたというから、秀吉はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っていることになる〔湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909所収。〕)。その西の下方の平坦地、かつての社殿があった太閤坦には秀吉の孫である国松と秀吉の愛妾松の丸殿の供養塔(五輪塔)が寺町の誓願寺から移されて建つ(ただし国松の五輪塔は新造のもの)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊国神社 (京都市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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